ボチボチと生きてくよ!秋田篇

35年振りに故郷に戻り生活することになった、気がつけば中高年の泣き笑いなど。
MENU

男のくせに....!

DSC04571.jpg

男のくせに・いい歳をして!
と散々PTA方面から罵声を浴びたのは、小学5年ごろ
このGIジョーなる着せ替え人形=今で言うフィギャアがクラスで大流行した
1960年代後半のことである!。

米国ハズブロー社製で、当時、1体・基本装備付¥1500円。
これを買ってもらうためにどれだけの家事を手伝い、
次の算数のテストで良い点を取ることを約束させられ猛勉強したことか??
当時の1500円の価値たるや途方もないものに感じたものだった。
勿論さらにオプションは蟻地獄のように用意されていて、
陸・海・空軍の衣装と装備は勿論、意外に人気があったMP(憲兵だな)や
潜水服にアクアラング、宇宙飛行士、さらに整備兵などもあった。

これをクラスの悪ガキ10数人が、マイGIジョーと、
各人各様、母親に頼んで小豆を入れて縫ってもらったミニチュア土嚢や
カモフラージュ用の草木やプラモデルなどを持ち寄り
友人宅に集まり、一大ジオラマ戦が繰り広げられるのだ。

必ずクラスに一人はいる戦闘歴史マニアが
「今日は1942年のポーランド戦線で行こうぜ!」などと想定はするが、
所詮は両陣営とも米軍のみ!?

しかもよく見ると土嚢の陰で自動小銃を構えているのは
銀色に輝くジェミニ計画宇宙飛行士だったり、潜水夫だったりするが、
細かいことをガタガタ言っちゃーいけません!
このおおらかさこそが60年代!
各人各様思い思いに勝手に愉しんだものだ。

まあ最後はお決まりのプロレス技=コブラツイストに逆エビ固めだ四の字だ、
勿論当時の最大トレンド「シェー」も・・・と荒れるが、まあそれも良い・・・
何事も寛容さが大事?。イマジネーションが大切なのだ。

その後、GIジョーは日本の玩具メーカー「タカラ」が版権を取得し、
そうしたギャップを埋めようとしたのだろうか?
敵方のドイツ兵や日本兵を発売したらしいが、
その頃はもうランドセル&半ズボンから学生服へと、
GIジョーではなくこちら側が衣替えとなって
いつの間にかスッカリ冷めてしまっていた。

今は時代的に少し値下がり情況らしいが、
一時、高円寺ゴジラや、中野まんだらけ辺りをフラっと覗くと、
どんな悪コンディションでも(最悪裸でも)オリジナルの60年代米国製なら
3万円はしていた。
結局クラスの誰も買ってもらえなかった憧れの「ジープ(当時¥5000)」は
なんと35万円…。
秋田のGIジョーのメッカ?金座街の「ミウラおもちゃ屋」で一瞬だけ目撃したが、
すぐに売れてなくなっていた。
あーあ金持ちの家に生まれたかったなあ!?
と、この後かなり現実的な白い空気が流れ、
ブーム終了に拍車がかかったのも事実である。

スポンサーサイト

何となく柄にも無く奮闘中!

DSC04514.jpg
以前も当拙文に登場した新屋在住の友人「Y」氏は、幼少のミギリ
休日に家族揃って「秋田に出てくる!」のが何よりのレジャー。
木内デパート3階の展望大食堂!で幼児用の足長椅子に座り、
日の丸の旗と小おもちゃが付いたチキン”ケチャップ”ライス・ベースの
「お子様ランチ」を食べた後、屋上遊園地でハイテンションで
アトラクションのすべてを制覇。
やれやれと帰宅する途中、上の写真のどう見ても「同年輩」の
子どもが手を振り

「楽しかったかあ、へばまたケなあ。じゃバイバーイ」

と言ってる気がして、清々しい気分になったとのこと。
いまだにこの橋にさし掛かると、銅像に一瞥し心の中で
「バイバイまたね」と唱えるそうだ。いい話やなあ





根が貧乏性というのか、カラダが悪いからと言ったって
伏せってるわけではないから、
昼間からブラブラしているのはどうにも罪悪感に苛まれ、
それがまた焦りというかストレスになって按配が良くない。
かと言ってじゃあ就職するか!ってほど世間も甘くない。

んで気休めみたいにハローワークなんぞに出かけてみるが、
ここで実に非情な現実にぶち当たる。

履歴書に書くべき「資格」が何もないのだ。

英検2級とか昔とったようにも思うが、なにせ大昔のことだから
証明するものが手元にないし、50歳をとっくに過ぎたオトッツァンが
敢えて履歴書に書くようなものでもないだろう
(相当勉強したんだけどね。ライセンス自体が役に立った記憶は全くない)

運転免許はかつて長期の海外出張中に失効したが
特に不足に感じたことがなかった。
運転は出来る人が沢山いるから、別に自分が出来なくても支障などない
・・・という感覚。

長く中小企業にいたから、ドブさらいから経営まで
ありとあらゆる仕事(=難題)に直面しても誰も解決してくれないから、
自分で切り開くしかない。
時には猛勉強し、どうしてもわからないことは恥を偲んで
畑違いの金融屋さんや法曹界などに足を運び、
面倒臭がられながらも教えを乞い、
会社のテリトリーを拡げていったという自負はある。

ところがそれらの知識や技能を「資格」「免許」という形に置き換える
ということには全く興味がなかったし、そもそも雇用される側に
再び自分が回るなんて思っても見なかったから、

気がつけば「ライセンス特になしの無能な中高年でございますよ、ハハハ…」
という世間的な評価をどこかで自虐的に愉しんでる自分が居たりする。

そんな自分だが、何となく?思うところあって、今回、生まれて初めて
「資格でも取ってみるか!それも困難な割には
 大して役に立ちそうもないやつがイイ!」
そのために自分的には猛勉強中な現在であるのだ。

意外にも理解は早い。我ながらどんなもんじゃい!
とコッソリ自画自賛したりもするが、
情けないことに翌日にはすっかり忘れてしまっている!
この辺が立派な「お年寄り」。だから予習復習は欠かせない。
古びた脳細胞の記憶バンクに何度も何度も上書きして摺り込んでおかないと
記憶が知識として変換されないから手間は昔の数倍掛かる!

実際の学生時代にこのぐらい必死にお勉強していれば、
もうちょい楽に生きれたかなあ??と思ったりもするが、
今は、今デキることをきっちりやリ抜こうと思っている。
少なくとも毎日が充実している、と感じるのは何十年ぶりだろうかなあと思う。
結構、本格リタイヤ後のライセンス取得、癖になったりしてね。

ゲンゴロウと吉祥寺...

DSC04471.jpg
手前の岸辺は8〜10歳頃の我らの貴重な大自然アドヴェンチャーの入り口。膝まで水に浸かりながら
ゲンゴロウやミズスマシ、ミズカマキリ、ヤゴなどの水生生物を追い掛けていた。
ある時、他のクラスの奴が当処で皆の憧れ「タガメ」を捕まえたことで、しばし
「タガメ・ラッシュ」で盛り上がるが、誰も2匹目を見つけることはなかった。



若い頃、音楽なんぞにウツツを抜かしてしまい、
随分と遅いスーツ&ネクタイデビューを果たした最初の勤務地が、
東京の少しハズレ、中央線沿線の中核都市=吉祥寺というところだった。

当時私が住んでいたのは三軒茶屋というところだったから
通勤は毎朝徒歩で20分程掛けて下北沢駅まで行き、
そこから京王井の頭線に乗って終点吉祥寺までさらに20分で到着する。

吉祥寺駅北口には昔はどんな駅前にも必ずあったはずの麗しの魔窟!
=ドヤ街(ハモニカ横丁)が今も現存しているが、
奇遇なことに下北沢にも「泥棒市場」という駅前ドヤがあったから、
期せずして魔窟から魔窟へ!ということになって、
会社がハネタ後、なかなか家に辿り着かない事態になる。
いやあ楽しかったなあ…。

下北沢というのは通町+大町程度の小さな町で、その後本多劇場を核とした
アングラ芝居のメッカとなってしまったが、当時はまだ普通に怪しくイカガワシイ
活気ある街だった(今も活気はすっごいけど、ちょい質が異なる)。

一方、吉祥寺は規模も大きいし、
当時から市場や繁華街の奇しさとファッショナブルさ、
井の頭公園(実際は三鷹市に属すのだが)の自然と
住宅街の整然が混然一体とした魅力的な街で、
今も昔も住みたい街の人気第一位であり続けるらしい。

30年前、私はこの街をかなりの欲目もあったのだろうか?
どうしたことか「秋田に似ている」などと途方もないことを感じていた。

街のキャパシティとかポテンシャル、ある種のコンパクトさが
秋田市とほぼ同等なのではないか?と極めて皮膚的に感じたのだった。
そして今にして思うのは、

何故今これほど差がついてしまったのか???ということ。

秋田はノンビリしていて良い街だ。
太古の昔から大災害も少なく、何となく食べれてしまう街だと思う。
東京では気を抜いてボーッとしているとすぐに飢えるか、神経がイカれてしまう。
そんな切迫感、危機感が、実は浮かれて見える東京都民の裏の顔・・・

いや真の顔だと思う。

そしてその切迫が繁栄を生む。
以前も書いたけれど、どちらを選ぶのか?
今の私はわからなくなってしまっているのだ。

そんなに悪くなかったぜ70年代!

DSC03646.jpg

山田五郎&みうらじゅんのPodcast「本当はかっこ悪い70年代」によれば、
70年代の根底は「アンチ・リッチ」にあるとのこと。
実際に飢えるほどの深刻な貧乏では全然なくて実家は案外中流家庭。
しかし都会に住むからには貧乏でなくてはならぬ。

四畳半でなければならぬのだ!

男おいどん大四畳半生活を実体験し
出来れば2年目は運が良ければ「同棲」なんぞして、
長い手編みの襟巻きを2人で首に回し、
ちびた石鹸をカタカタ鳴らしながら一緒に銭湯に行かねばならない。

そんなある日突然、彼女に「ないの・・」と言われ、
「俺の青春もここまでだぜ!」
などといって長い髪を切り、学校に行かず労働に汗するが、
実は彼女の方はただ単に遅れていただけ!というのが発覚し、
以後何となく盛り上がることなくそのままお別れ…
これも人生だぜ!とATGあたりの青春映画の主役を気取ってみたりする
(全部妄想だが・・・)。

ファッションなんて感覚はなく髪は手入れもしない洗いざらし。
Tシャツにダブダブのオーバーオール
履物は下駄と言いたいところだが中村雅俊ではない。
ビーサンか国産の?スニーカー(既にNIKEはあったが一部プチブル学生のみ)。

酒は最上級でサントリーのホワイト!
居酒屋とかスナックなんて、ましてキャバレーだのクラブだのは憎きブルジョア、
または会社に魂を売った背広族という人種の為の別世界
(実はキャバもクラブも違いがよくわかってない)。

格好良いのは赤ちょうちんのカウンターだけの一杯呑み屋。
椅子はあったほうがいいが、なくても構わない。
私は東京のインド!高円寺の立ち呑み屋で当時80円だった
レモン酎ハイデビュー。
金もないのに何故だか毎日浴びるほど呑んだものだ。

一方、1980年から81年にかけてヨーロッパを放浪した山田五郎は、
帰国した途端、日本がすっかり変わってしまったことに驚愕したそうだ。
長髪族が絶滅し、皆テクノカットでツルンとして清潔そのもの。
貧乏が美徳ではなくなって、若者はクルマを買いナンパに走り、
高級な酒を飲み、何より住まいは四畳半ではなくワンルームマンション。
70年代は金持ちというだけで背徳的で悪者な存在だったけれど、
80年代はそれまでヒールだったスネオ君や花形満がもてはやされる時代となり、
やがてバブルを迎えるのだった。

個人的には、取り敢えずビール!んで次どこ行く?
なんてスカした最悪にかっこ悪い時代だった。

実を言うと私はなんだかつい去年までそんな猥雑な生活の中に
長ーいこと居たような気がする。
今、大病を経て、なんだか東京での35年におよぶ生活が全てが夢だったような、
そんな気もするのだ。

ついさっきも東京に残ってる家人からの電話で、
放射能やら地震やらで東京が壊滅する前の今のうちに
マンションをどうにかした方がいいのではないだろうか?的な生々しい話に触れると、
実はどっちが夢か現実か混乱する。

東京にいれば秋田の生活は夢だし、秋田にいれば東京はウツツとなる。
当たり前といえば当たり前なことかも知れないな。

なんとなく高円寺的な長野下(もう誰も知らないかな?)の民謡酒場あたりに
繰り出したくなった…実は行ったことはないし。川反も殆ど知らない。
上京前は高校生だったもんでね。

自転車屋に行きたい!

DSC04449.jpg
道が乾くだけで視界がグッと広がるから、普段の道も楽しくて・・・

ようやく軽快に自転車を走らせる季節になりましたね!
いやはやメデタイ、いよいよ春じゃあ! 

ところが冬の間、あっという間にマイチャリは大雪に埋もれ,もはや哀れな情況。
空気は抜けてるは、チェーンは錆びてギコギコと妙な音がする。
こりゃイカンと自転車屋に向かうものの、夕方5時過ぎでは自転車屋は閉店ガラガラ。
意外にも平日に自転車屋に行ける時間がない緊急事態となってしまった。
仕方なくポンプと機械油と簡単な工具キットをドンキホーテで購入し
何とかはなったのだが….。

確か近年は全国的な自転車ブームで、こうしたモノはまず格好から!との鉄則に従い、
オシャレな雑貨店的な自転車ショップが乱立していると聞く。
ところがこの街では・・・
まあ1年の3分の1は使用不能だし、仕方ないかあ!ということか。

それでも昔ながらの人情自転車屋は秋田にいくつも健在なのを私は知っている。
東京では30年前から自転車屋でポンプを借りると当たり前に料金がかかる。
昔は50円程度だったが、最近,とは言っても今や一昨年の情報ながら、
セルフで300円請求されて驚いた。

またブレーキレバーのネジが緩んだので、
自転車屋に寄ってドライバーを貸してくれ!と言ったら

「工具を貸すというカテゴリはない!きちんとメンテナンス依頼して欲しい」
と言われそのとおりにすると、ネジを半回転ほど締めただけで

「技術料700円+初回入会費用300円」で
まさしく「締めて合計1000円」請求された。
正直なかなか後味悪い!気持は分かるけどね....。

秋田に戻ってきて、足としての自転車を購入。
様々自転車屋に厄介なってるが、
空気入れたい→そこのポンプで適当にどうぞ!
料金?そんなもん貰えるわけねえべや!

全体ネジ緩んでるみたいで・・・
少しフレーム歪んでるなあ、転んだ?ぶつかった?
んだべ!....と、手際よく全体の調整をしてもらいその間30分。
おいくら?と恐る恐る聞くと、500円も貰っておぐべか!
最近多いスーパーで安く買ったような中国製ならもう少しもらうども、
旦那さんのは国産車だから、そんなに戴くわけにはいかねべ!!

まあ色々業界の事情はあるにせよ、爽快な気分になったものだ。
もちろん自転車も爽快!
散髪屋と同じで、自分で自分の頭刈ったって全然気持ちよくないのだ!

早く自転車に行ってさっぱりしたい!!

父のこと

IMG_2897.jpg
在りし日の父の後ろ姿!ならかっこ良いのだが、ザンネンながら別人様。
実際の父はスーツ姿のまま釣竿を垂れる変わったヒトだった。


12年前に亡くなった父親は東京生まれの横浜育ちでしかもボンボン育ち。
それが大空襲で焼け出され、また様々あって戦後になって
食糧豊富なユートピア(?)秋田市に移住した。
以来50余年を秋田で過ごし一生を終えている。

子供の頃の私は、父親の何だか中途半端で不自然な秋田弁がどうにも情けなく、
また秋田にあっては致命的とも言える一切アルコールを受け付けない体質
だったことから、交友関係は極めて狭かった。
趣味も休日に近場の川での魚釣りくらい。よく連れていかれたが、
一度釣竿を振り降せば….何時間も黙して語らずなタイプ。
息子の私でさえ付き合いにくい男であった。

突然、余命幾ばくもないと聞かされた。

私は東京で家族を持ってはいたが、秋田の実家には親戚の冠婚葬祭以外は
あまり帰らなかったから、双方合わせた家族が揃って団欒というのは
ほとんど記憶になく、思えば親不孝をしたものであった。
もう最後だから…で東京と秋田の本来の家族が「病室」で揃うことになった。
母ははしゃいでいたが、父はあくまでも父らしく、
薄く微笑みながらも威厳を保ちつつ、よく来た、ありがとな、忙しんだべ? 

秋田弁は相変わらず下手だった。

更に家人の手を握り、よく来てくれた、やっと家族が揃ったよ.…。
我々は心からそれまでの親不孝を恥じた。
いままで会社を休んだことなどなかったが、
その時は初めて数日休暇を入れてなるべく父の病床に付き添うことにした。
最後の一ヶ月、毎週土日は新幹線帰省な日々。
父とまともに向き合ったのはこれが最初で最後だった。

亡くなる2〜3日前だが、父の意識は明瞭なのだが、
言ってることが微妙におかしいと気づいた母は、記憶テストを行った。
何でも几帳面に記憶してる人だから、自分の家族の生年月日とか、勤務先と部署名、
ついでに私の東京の住所や電話番号まで正確に記憶していた、そんな人なのだ。
ところが一番安心していた自宅の住所が意外にもNGだった。

突然、神奈川県横浜市〇〇区△△町x丁目x号・・・と喋り始めた。

強いショックを受ける母、自分と知り合う以前の、
50年も前の住所を実に正確に現住所として粛々と真顔で話す父。
父の一世一代のジョークではないのか?と思ったほど。
その直後から容態は急変したから、まさに父の人生最後の謎の言葉となった。

後日、私は父のそこまでの思い込みの場所(?)に、
その正確な住所をもとに訪問してみた。
意外にも鶴見線という京浜工業地帯の中枢部にある中で
唯一といえる小さな住宅地にその地点はあった。
何の変哲もない鄙びた住宅地だったが、近くの土手を上ってみたら唖然とした。
父が長く働いた茨島あたりの光景そっくりなのだ。
JRの引込線やら、不自然に入り組んだ運河の蛇行。そして行き交う船の活気。

そして今、秋田の茨島に行ってみると…
なんだこれは!と見る影もない姿に唖然としつつ、
町が死んだと言うより、時代が終わったんだなあと思うに至った。
死んだ者、町を悔やむより、
次の時代を我々や、次の若い人がまた作り直さねばならないのだなあ!
とあらためて思うのだ。

神明山鉄人レース?

IMG_2839.jpg
しんめいやま北側 ”心臓破りの坂” この先に繋がる八幡山を
のちの世は水道山と呼んだ。         2011年9月


グランドが狭すぎて運動会が自主開催できず、
毎年シーズンにはジプシーのように移動する
「悲しき中小企業」のような市立小学校にいた(現在は移転済み)。

ところが誰が思いついたか、おもいっきり地元で校庭替わりの場所を
「マラソン大会」と称してはいたが、実質クロスカントリーな競技を
恒例行事として行うようになったのは、
生徒(小学生は児童か)としてなんとも迷惑な話だった。

戦国時代までは三浦氏、川尻氏が居住した
出羽国秋田郡程野村窪田の神明山(標高40m)のフモトの
小学校校庭をスタート→いきなり急峻な坂を一気に駆け上がり、
二の丸の砂利敷トラックを何周かしたあと、
胡月池、児童動物園、彌高神社を右に見やりながら進み、
北側入口となるまたしてもの急な坂を登り(以来、通称心臓破りの坂)
本丸に出る。

今はなき人工滝のマイナスイオンを感じながら、
ここも何周かしたあと、階段を避け、再び北側の坂、
松下門の坂を最高速(?)で降り、狭い校庭に戻りゴール。

以降本丸ゴール、二の丸ゴールといろいろ試行錯誤はあったが、
だいたいこんなコースだったように思う。

今でこそ、のんびりカメラを持っての散策を楽しみとしている場所だが
当時はまったくもって迷惑千万な、苦しいだけのイベントだった。

対角線に走ってやっと50m走のタイム計測が可能な狭すぎるグランドはもちろん
プールすらもない不憫すぎる小学校だが、旧いだけのとりえを
「歴史」「伝統」「誇り」という言葉に強制変換してすり込まれ、
足りない部分のモヤモヤを誤魔化され続けていたように思う。

今は移転して何でもあるフツーな小学校だと思う。
そうなると今度は普通じゃダメなんだよ!
もっと創意工夫しなきゃ!
何故なら伝統校なのだから!
と、あまりにも根拠のない教条主義を持ち出したくもなる
こちらややこしいお年頃の、困ったOLD BOYSなのであった。

おむすびと御御御付けと・・・

DSC02400.jpg
青空はもちろん好きだけれど、雲ひとつない空は何故だか不安になるから好きではない。
だから2本..線が引かれたところで、やっとシャッターを押せた。

いつ頃だろうか? 中国や韓国の留学生がやけに増えて,
居酒屋とか、めし屋とか、ありとあらゆる職種のアルバイトに
やたらと彼ら彼女らが進出し始めた時代がある。

ある日、仕事途中の昼メシ時、小田急新宿駅ナカの蕎麦屋に入った。
注文を聞きにきたバイト女性はあきらかにチャイナ風アクセントの日本語で、
次々入店してくる客にいちいち

「ただいまのお時間にかぎりランチタイムサービスとして、
オニギリかいなり寿司のどちらかがついてますので、どちらか申しつけください!

と台本通りに説明している。
すると品の良さそうな年配のご婦人が入店してきた
「........どちらか申しつけください!」

そうねえ、じゃあ「おむすび」いただこうかしら!

いや、あの、ただいまのお時間にかぎりオニギリかいなり寿司、どちらか申しつけください!

だから「おむすび」って言ってるでしょう

おん、オム・び?というのはないです、オニギリかいなり寿司,.どちらか・・

なによあなた、おむすび無いなら無いっていえばいいことでしょ!
じゃあ、おいなりさんでいいわよ!

(半鳴き声で)オニ、オニ、オニギリか、いなり寿司・・・・
わあ!おにぎりー!いなりずしーと絶叫して、彼女はお盆を抱えたまま
店外に飛び出してしまった。

こうして留学生は国に帰り、日本では老婆にまでいじめられた!
ひどい国だ、最悪だ!などと吹聴し、日本排斥のデモ何ぞに率先して加わり、
日の丸に火をつけるんだろうなあ。と思うと、ちょいと嫌な感じがした。

ちなみにうちの寒がり家人は悪気はないのだが、
ついくせで居酒屋などで、御御御付け(おみおつけ)もお願いしますね!とかいうから、
相手がアジア系のバイトの方だとまず通じない。
最近は日本人でも通じてない!

また最近は生鮮品を売ってるコンビニも増えたが、あまり品数は豊富ではないから、
今日は青菜売り切れちゃいましたかね?とか聞くものだから、
だいたいバイトくんは,..ア、アオ..ナ、、ですか?アオナ、あー、あおな?
売れ切れ・・・ちゃったみたいで、す、か、ね?とちんぶんかんぷん。
私がみかねて家人に、ほら、ここにあるじゃん、小松菜はないけど、
ほうれん草も、ちんげんさいだってあるじゃんか?
するとバイトくんはあー、あおな、あーなんだ、青菜ですかあ、
確かに....という具合。

別にバイトくんは悪くない!
きちんと小松菜とかほうれん草とか言わないおまえさんが悪い!
そのうちいじわるばあさん来たぞ!って言われるぞ。
と、たしなむオトボケ爺さんな私でありました。
あー日本語難しあるね。

該当の記事は見つかりませんでした。