ボチボチと生きてくよ!秋田篇

35年振りに故郷に戻り生活することになった、気がつけば中高年の泣き笑いなど。
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情熱の春のボケ!

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♪サクラサクラと今朝はいつも通学路として使っている太平川沿いの
噂に違わぬ見事な桜を堪能。
ところが桜とは別視線上の艶やかな色彩に妙に感動してしまったわけです。
情熱の春の色、その名も「ぼけ」!


仕事してる時分には天気の良い休日に早起きして
お散歩なんて考えもしなかったし、
家人に誘われても鬱陶しいだけだった。
まあ外食ブランチ!?なんてのにダマされ釣り出され、
腹ごなしに散歩…ってのはよくあったけれど、
自ら路傍の花に季節を感じ愛でたりなんて心境に至ることはなかったのだが

どうしたことだろうか?

天気の良い休日の朝など、
家で悶々としてることに罪悪感さえ感じてしまうし
道端の鮮やかな色彩に立ち止まったりする自分に対し

何?どうしちゃったのさダンナァ!と自問したりするわけだ。

この自身の変化を東京にいる家人に伝えると

「いいわね、そっちはのんびりしてて…」的な?嫌味を言われた。

毎日ビリビリしてるばかりじゃなくて
少しは花を愛でるくらいの気持ちの余裕を持ちなさいよ!
と云われ続けて数十年、
やっとその心境になったというのに…
まっ仕方ないか!であるのだけれどね…..

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いにしえのカメ売りはいずこへ?

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今年2度目の千秋公園。ちょっとエゲツナイ色補正を施してみた。
わりと朝早くに、半袖ポロシャツにベストという初夏スタイルで出掛けたけれど、
しっかり汗ばんでしまうほどの陽気。
風がまだちょい肌寒いかな…と。
あと、本丸の滝が復活してるのは驚いたけれど、
昔と何だか若干位置が違うのかなあ?




子供の頃はお花見出店のあれもこれも欲しくって(勿論買ってはもらえないから)
大人になったら端から端まで全部買い占めてやる!
大人買いしてやるのだ!と心に誓ったものだが、
いざ大人になるとナカナカ欲しい物がない。

あの出店商品のターゲットはどこに照準を定めているのだろうか?
実際凝視すると昔とは少し違うラインナップのようだ。

綿菓子屋がまず皆無だ。
花見といえばまず綿菓子だろう!と我々世代は思うが、
そのメインがないのはモチロン時代にそぐわないからだろうが、何だか寂しい。
お面&風車というのは買ったことがないし昔からあまり欲しいとは思わなかったが、
これは未だ健在。欲しくはないが、お花見や縁日らしい華やいだ気分にはなるから、
次世代まで続いて欲しいと願う。

金魚すくいも健在。チャレンジしてみようかとも思ったが、
我が家には獰猛なバカ猫が2匹もいるから、無駄な命は散らすまい!と諦めた。
焼きそばとかお好み焼き系は相変わらずだが、
焼きトウモロコシは見なくなった…最近食べてないなあ?と思ったら
歳のせいで「歯」がヤバイくて食べにくい!ってことを
不意に思い出し情けなくなった。
確か蓮根もシンドいんだったなあ・・・情けない、ああ情けない。

そしてお花見時期に最も燃えたのは「カメ」であるのだが、
残念ながら「カメ売り」は皆無。
タライに石亀、草亀、ミドリガメ(ミシシッピアカミミガメ)などが並べられ、
子供らがしゃがんで一番元気そうなのを見極め、買ってゆく。
ただし夏は越せても秋田の厳しい冬はナカナカ越せず、
その悲しみを乗り越えまた春が来て欲しくなるこの時期に
「カメ売り」が千秋公園の、特に中土橋の堀沿いに何店も居並ぶのだ。
しかし今や中土橋には何かの条例か?店すらないが、
「カメ売り」も何処に消えたかすっかり見当たらなくなってしまった。
やはりそんな時代なのだろうか?

40年ぶりのサクラ

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出身の小学校が今は同じ場所にないことは以前にお話(?)した。
しかし上手く作ったもので、跡地に出来た図書館の風情は
何となくだけれど、昔の小学校の雰囲気に似てなくもない。
勿論そりゃもう遥かにボロボロのグシャグシャだったけれど・・・。

そんな当時の話だ。大抵の生徒(児童・学童か?)は校門を出て右の坂を登り、
公園を抜けて手形方面に帰宅する。これが7割。
さらに2割は校門から直進で矢留方面。
校門を左に出て広小路方向(実際には国学館?との間の路地を往くのだが)は1割程度。
私はその1割のマイノリティ=少数民族の中にいたから 
学校内では同級生たちとワイワイ騒いでいても、
門のところで「じゃあさよならまた明日」
と一人寂しく帰らねばならないことが多いのだ。

この自らの過酷な宿命を何度呪ったことだろう!!

そんなワタシが年に一度異常なハイテンションになるのが
この「お花見」の時期に相違ない。
この時期は児童たちの射幸心を煽る売店も多いし、
妙な方々も多くて危険?という判断から、
お花見期間中の公園経由通学は禁止となり、
何と皆で一斉にホンの数十メートルながら大手門通りに抜ける坂の路地を
ワイワイと一緒に帰れるからだ。

本当にこれは嬉しくって「桜さん、毎年咲いてくれてありがとう」
「ワタガシ屋さんもお面屋さんも金魚すくい屋さんもみんなありがとね!?」
と云う心境なのであった。

さて、この時期の千秋公園は実に40年ぶりくらいだろうか?
こんな極めて個人的理由から、妙な高揚感というのか
勝手にテンション上がりっぱなし、
感無量で涙すら出てきた50過ぎのおとっつぁんがここに居るわけです。

長年「桜は千鳥ヶ淵が一番!」などとホザイテいた私だが撤回する。

「サクラは千秋公園が一番!」。

敗者の弁

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可愛いですよね。でもこれ何ですか??知ってる方、よろしくです。



親がまだ存命中なもんで、あまり知られたくない過去になる。

時代は携帯電話どころか留守番電話すら存在せず、
電話機といえば電電公社(現NTT)から貸与されてる形の、
あの黒くて重くてダイヤルをジーコジーコと回す意外とイラつく
通称黒電話しかない時代に、それさえ持てない自由業
(=私の場合はミュージシャンだった頃)の連絡手段確保というのは
想像以上に過酷であった。

実家住まいなら家族がメモっておいて後ほど…という手段もあろうが、
地方出身アパート1人住まいの駆け出しミュージシャンは、
1日中陽の当たらない4畳半か6畳に引き篭もり仕事依頼の電話をひたすら待つ…
なんて悲惨すぎる話だし(実際にたくさんいた)、
第一私の立場はまだ学生であったし、貧乏すぎて電話すら持ってなかったから
(電話設置に軽く10万はかかった時代!)
申し訳ないことに徒歩2分くらいのアパートの大家さん宅を
緊急連絡先にさせていただいたものだから、
仕事依頼が、その番号に呼び出しか取り次ぎ願いますという形で連絡してくる。
当初こそ60年輩の大家さんも意外に有名なプロダクションやレコード会社を
名乗る電話に興奮して「〇〇プロって三人娘(古ッ!)とかいる会社でしょ、
今度いつでもいいからサインなんて貰えたら・・・」
という調子でついつい甘えていたら、
サインは一向に持ってこないし、あの業界だから時間帯なんてお構いなしだから、
ある日遂に逆切れされて取次拒否に至ってしまう。

でどうしたかというと、たまにバイトしてたPA屋
(イベントなどで見かける音響屋さん)兼プロ用貸スタジオ屋の
社長さんには会うたび誘われていたし、共同経営でどうだ!とまで云われていたから、
共同はともかくも「時間ある限り仕事手伝う代わりに連絡先確保と、
さらに電話番のオネーサンに取次をお願いしたい」で商談成立。
以後、そのスタジオに連絡が入ると女子バイトが出て
「ハイ、はただいま外出中ですが、
〇〇時には連絡が入ることになっておりますので…」
という個人マネジメント会社のようになる。

まあ蛇足だけれどその電話番バイトのオネーサンも
後に少し有名なタレントになったり、
そんなのは極めて日常的で珍しくもない環境だった。

そんなわけで、それほど「連絡(取次)環境の構築」は大変だった訳で、
この環境を上手く利用すれば、学校にだって行けるはずだったが、
PA屋の仕事が思いのほか忙しくなり、さらに会社は私を介して
「意外に有名なプロダクションやレコード会社」との関係を深めていって、
イベント企画やらスタジオへのタレント/バンド誘致などがうまく行きすぎてしまい、
やがて私は教授直々に秋田の実家にまで手紙を出され意見された挙句、
学校を追い出され、他にもさまざま悲鳴を上げることになる。

たった数年の出来事ながら何十年分に匹敵する経験を、
否が応にもさせられるわけで、電話の代償たるや計り知れないものになる。

この時代の辛さ悔しさなどを思えば、
後にブラジルの片田舎やタイのラオス国境近くの村に放り出されたり、
トルコでの逮捕監禁(そのうちね!?)など、
全然どうってことない軽い出来事にすぎない。

若い時の苦労は買ってでもせよ!なんて無責任なことをいう人がいるが、
苦労なんてできる限り回避すべく自己マネジメント出来た人間のほうが
明らかにエライと思うし(早い話が断り上手)、
苦労を苦労とも思わないクダラナイ精神力が一番不幸!?とも思う。

辛かったら耐えるより、文句言って自分ではなく先方を変えさせたほうが
よほど幸福に違いない。
それが出来る人こそがストレスを貯めこまず、
病気もせず長生きした「人生の勝者」なんじゃないかって、
最近思うわけです。

そういうわけで堂々「敗者の弁」でした。

ヤレヤレとイヨイヨ

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いよいよカウントダウンっすね。


こちらはヤレヤレで、やっと本日「某検定試験」を終えました。
もうナンヤラ関数やらマクロだVBAだのの教科書や問題集とも今日でおさらば!
結果なんぞもはやどうでも良い心境
オジサンの30数年ぶりお受験体制も任務完了!というわけでした。
お疲れっした。

ここ数日お天気ですが、
そうしたわけでナカナカ春の到来を心から喜べない事情がありましたから
本日は陽気も良くて気持ち良いので、自転車を押しながら
しばらく歩くことにしましたら
ナゼか昔馴染みの知り合いに逢う逢う。

「なんで今時分にお前さんがここに居るんだ?」
「誰か亡くなった?」
「……」

今更、もう1年近く居るよ…というと何かと不義理がバレるので、
「ちょっと体悪くしてね…ゲホゲホ…」なんて感じ。
旧友くんゴメン、説明するのが面倒臭いから、またゆっくり話すよ!

というわけで今日はこの辺で。少しお昼寝しま〜す。

べここのこっこ??

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Yeah!もうすぐだぜぃ!!って、自分ってそんなにサクラやら春に興味ない
人生送ってきたのに、突然どうしたって、やっぱ「しーと」ですかね??





何年か前に、寒がりでお馴染みの我が家人に
秋田弁を教える講座を開催したことがある。

因みに彼女は「職を変えること」と「語学を学習すること」が趣味。
職は何しろ思いつきで葬儀屋から廃棄物処理業、
雑誌のライター、イラストレータ、某国大使館付きの情報収集(スパイ?)、
メガバンクの丸の内本社から超大手広告代理店まで何故だか
自由自在に入り込む事ができる特異な性格!。
今はなんと世間で最大にバッシングされている東◯で働いているらしい。

語学は様々スクールを探して挑戦しているが、どれも皆カタコト止まり。
普通に英語とかハングルならわかるが、そういう誰でも?なものには一切興味なく
アラブ語だのヒンディー語だの、近頃はエスペラント語なんて
役に立たないものにまで興味を持ってるようだ。
その他はアイサツと自己紹介が出来れば上等!と世界各国の最低限言語を修得。
東京には便利にも世界中の料理屋があるからどこへ行ってもその国の言葉で挨拶したり、
美味しい!などと現地語で臆面なくやるものだから
どこへ行ってもサービス品が必ず付く!

シェフや店長などからその場でさらにお国言葉を習ったりして
当人は食事だけではない何とも濃密な時間をそこで過すわけだ。
この人は世界中どこへ行っても食いっぱぐれることはないだろうなと思う。
私?ただ傍らで笑ってヒヤヒヤしてるだけ。
ちょっと今の防衛大臣みたいな心境かもしれないがムコではないぞ。

おっと、おマヌケ秋田弁講座だった….。
名詞の後に「っこ」を付けるのは知っていたから、
牛は「べこ」ということは?
『ベこっこ』
「その通り!では子どもは?」
『こどこっこ』
「違う!こっこだ。じゃあ、牛の子どもは?」

『・・・・べこっ?べこっこっこ??あっわかった、こべこっこ!』。

顎がはずれるか!ってほど笑ったが、
当人は正解の「べここのこっこ」の方が遥かに可笑しい!とのこと。

今の私は秋田の実家で実に静かすぎる生活を送っているというわけだ・・・。

少し怒りモードです。

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おかげさまをもちまして??秋田に戻ってそろそろ1年なのだけれど
ずうっと、そこはかとなく不気味に感じてることがある。
東京では当たり前にそこら辺に紛れている「制服警官=おまわりさん」の姿が
街にも路上にもどこにも見当たらない…
いや見たことすらないということ。

彼らは普通に街の景色や活気に同化してパトロールしていたり、
駐車違反を取り締まっていたり、交差点の物陰に隠れ姑息に
ネズミ取りをしかけていたり、
逆にさりげなく微笑みながら幼稚園児の通行をアシストしていたり、
夜は夜で酔っ払いと一悶着していたりと、当たり前に我々の身近で
まさに陰日向になり、有り難く存在しているはずだが、
この街にはその気配すらないのは何故なんだろうか?。

秋田県警は人出不足なんだろうか?
それとも秋田は平和で事件もトラブルもなく、
ドライバーもマナー良く交通違反などしないですから・・・??
ということなんだろうか?

そのわりには毎日自転車に乗っているが、
いずれ私は黄色ナンバーのオバちゃんドライバーに
「このオジサンがどこからともなく急に飛び出してきたのよー
私はむしろ被害者!でしょでしょ!?」
と云われながら無残に轢き殺されるのだろうな?
という未来映像をリアルに想起できる程、ハイリスクな運転をなさいますな。

私は東京でも自転車愛好家、興が乗れば渋谷でも六本木でも
きちんと交通法規を護った上で、チャリで快適に疾駆する。
そして長年の夢だった秋田颯爽自転車走!は、
実は未だに恐怖体験の連続(毎日)だったりするわけなのだ。

さてドライバーの皆さん!耳の痛い話かも知れないが敢えて言いますよ!
秋田のドライバーさんにはヤバイ人多いです(特にYellow Number Lady )!
語弊ありますが、知りうる限りでは交通事故率日本一の沖縄に匹敵する乱暴さです。

十字路左折方向の横断歩道を渡るご老人がチンタラしてると、
待たずにその目前を加速してGOしてませんか?
更に後続車もよく前方を把握せずに前が発進したからと続いてませんか?
少なくとも私は毎日この光景を数カ所で目撃しています。

青信号を渡るお年寄りの直前をクルマが後ろから回り込んで横切り、
お年寄りはビックリして転倒して怪我をしてもクルマは構わず去ってしまいます。

これって立派な「轢き逃げ」ではないでしょうかね?。

まあ轢き逃げの件はめったにあるものではないにしろ、
似たような情況はほぼ毎日目撃してますから、
秋田って歩行者側が率先して譲り合いの精神を発揮して自分を守らなきゃならないのね!
と秋田に来て早々に覚悟した次第。
クドイようだけど、もっと交通量も歩行者数も過密な都市で
30年以上もチャリに乗ってるけれど、
それまで本当に一度もなかったことをほぼ毎日目撃、
或いは経験してるわけですから、
そうなると「オマワリさんは一体どこで何してはるの?
あなた方は街に出てナンボでしょ!?」
と思わざるを得ないわけです。

歩行者やチャリがどん臭くてイラつくのは当然のこと。
それを大きな温かい愛で安全運転、心がけましょうよ!

ダウンしてました。

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春まだ遠い秋田? 春への準備段階がまた長いんだなあ、これが。


久しぶりに本格的な風邪で3日間完全ダウン!
今も鼻&喉がグチュグチュ。
あんまり辛いから昨日、近くの診療所に行ってみると心に誓ったものの、
午前中はあの嵐の続きで猛吹雪!
んで、昼休み明けの1時頃を狙って行ったら・・・・
結局3軒回ったけれど、みんな午後診療受付は3時から・・・・。
前夜の名残りで、寒いしまだまだ風も強い。ここでまた具合を悪くしてしまう。

結局一旦家に戻り、また一眠りして出かけたが、これはかなり勇気が要った。
まあ先生には「扁桃腺真っ赤っ赤!典型的な風邪です」で終了。

因みにお江戸では、マンション住まいだけれど、
隣のローソンの2階が内科&整形&皮膚科のクリニックで、
先生は若くてイケメン、しかもハツラツとしてサワヤカ、
ジジババのヨタ話もよく聞く
(だから一人あたりの診察時間がやたら長い=これもまた人気!)
たいそう高潔な人物だから当然我が家人も大ファン!。

そんなだからアポ無しでは診てもらえず予約制になる。
ただ時間的に20時過ぎしか今日は空いてないんですが、そんな時間で宜しいですか?
といわれるのが一般的。こちらとしては隣だけに何時でも診療してもらえるだけ
でラッキーだから、待ち時間0分でベッドからエレベータ、隣のエレベータで直行、
或いは会社を早めに引けて滑り込むことも可能なわけだ
(普通に9時までいる会社だったので)。
当然家人は咳がコホンと出たら速攻電話予約を取り付けている。

一応付け加えるとエリアにもよるが東京の夜は遅い。
8時などまだまだ宵の口てか夕方で、八百屋のトメ吉(誰?)でさえ9時すぎまで
営業しているし、自転車屋のロクさん(だから誰だって?)も9時閉店。
だから7時頃閉めたんでは「つぶれたか?」と思われ、事実、早晩そうなる。
そのへんもこの秋田に比べると厳しい環境だが、
こっちはなんせ7時過ぎれば駅前すら人はおらず閑散と・・・だが、
そこを大店舗は大店舗の責任として営業せねばならないのではないかと思う。

誰も通ってない道をライトアップしても仕方がない、も道理だが、
ライトアップし、営業側があと1時間、いや2時間頑張って、
街の灯を遅い時間まで絶やさないように!という意気込みが、
決定的に欠けているのでは?と思う。

まあ取り敢えずは駅前の中核となるであろう「ナカイチ」に
映画館やアミューズメント施設や駅前に不足している種類の店舗
(家電量販店とかBookOff ….)で溢れ、最低9時までは営業してほしいものだ。

その上でお堀〜千秋公園もライトアップしてくれたら絶対行くでしょ!
夜の公園、夜の街!!!。

孤独な旅路の記憶

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実は子供の頃とか学生時代、更には30歳台中盤から以降の記憶は、
自分的にやけに鮮明なのだが、20歳台中盤から30歳台にいたる
約10年間の記憶が、曖昧というのではなく非情に不鮮明なのだ。

この時代といえば当然だが公私ともに充実した、
あぶらギッシュな時期だったと思う。
普通は人生の黄金時代として記憶鮮明でしかるべきと思うのに、
私の場合は何故か荒涼とした、鉛色な記憶でしかないのはナゼなのだろうかと思う。

そういうわけで、いつの時代かすらもはや定かではないが、
最もぼんやりしてる記憶の中で、ふと「あれは何だったんだろうか?」
と今でも首を傾げるエピソードがある。

ある年の45日間を私はブラジルのベレンという港町で過ごしている。
アマゾン川流域の大西洋岸に近い都市で、南米におけるヨーロッパの表玄関…
だったのは恐らく100年前の話で、今では欧州への貨物航路が多少残るだけの
退廃的ムードが漂う港町である。

ナゼ私がたった一人でこの街に長期間滞在したのかの理由すら
今となっては詳しく覚えてない。
恐らくはイタリア行きの貨物船をひたすら待っていたか
アマゾンからの大理石か何かの積荷を待っていたか、またはその両方だと思うが
いずれにせよ私はこの日本人も殆ど(日系人は多い)いない街で、
朝から晩まで大方ヒマなのである。

あの頃にデジカメでもあれば、それはもう毎日が楽しいものだったろうが、
来る日も来る日もひたすら安くて美味いレストランや、
夜を楽しく過すためのグッドバーを捜すくらいしかすることがなかったように思う。

そのうちに街の人達ともあいさつを交わすようになり、
様々世話を焼きたがる下町おばちゃんもいたし、
恥ずかしいが、ちょっとした恋もしたような気がする。
そのまんまこの国、この街に隠れてしまおうか?と
考えたことも一度や二度ではない。

しかし成田に戻ってきた瞬間、現実という怒涛に一瞬で巻き込まれ、
東京に帰り着く2時間ほどの間に
ベレンでの45日間のすべてが「遠い夢」に変わってしまった。

それ以降、南米すら出掛けることはなくなった。
もっと効率的で時短な業務にシフトしたんだろうなと思うが、
それすらもう忘れてしまった。

その後、ある時を境に、突然、記憶景色に色がついた理由は分かっている。
家人に押されてサッカーチームを組織して自らプレーを始めた。
(やりたい事はウジウジ考えてないですぐやるべき!とハッパをかけられた)
結果として仕事のONとOFFを明快に分けた以降の記憶から俄然鮮やかになったのだ。

他にも、呑んだ席では仕事の話題は私の前では一切なし!を公言した。
愚痴を言いたければ、堂々とレポート提出せよ!などとも実践した。
そうやって意識して自らのストレス軽減を図ったことで、
急にダイエットも上手くいったし?
仕事の面白味も変化していったように思う。

会社も急成長を遂げ、やがてピークを迎えたように思うが、
ピークはいずれ・・・それはまたの機会に。

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