ボチボチと生きてくよ!秋田篇

35年振りに故郷に戻り生活することになった、気がつけば中高年の泣き笑いなど。
MENU

蔵の中から飛び出たMorris

09414.jpg

私がギターを弾き始めたのは、
やがて中3になる春休みだったと記憶している。

動機はご多分に漏れず、
ギターが弾ければモテそうだったから。

実際、教室や文化祭などで同級生たちが、
当時流行っていたらしいフォークソングの、
吉田拓郎やら六文銭、加川良、古井戸やRCサクセション
(まだアコースティックな時代)なんかを、
ジャカジャカ弾いて唄う姿は、カッコ良いし、
素直に羨ましいなあと思っていた。

本当は電化した大音量ロックバンドをヤリたかったのだが、
当時の中学生ではエレキ=不良少年!だから、
問答無用の極悪人として職員会議に掛けられ罰せられるような時代。
中学の間は世を忍ぶ仮の姿で、
駅前全音で買った「モーリス持てばスーパースターも夢じゃない!」
のコピーでお馴染みのアコースティックギター(蔵から発掘)で、
「Guts」やら「ヤングギター」「新譜ジャーナル」なんてギター雑誌で
コードを覚えながら、
やがて高校生になったら「目一杯ハジけてやるぜ、待ってろよ!」
と思い続けながら、ジッと時を待つ事にしたのだった。

高校に入学が決まってすぐに、
東京の親戚宅に半ば強引に用事を作り、エレキギターを買いに行った。

普通に国産のGRECOギターが欲しかったが、
お小遣いが2万ほどしかなくて、
もう少し貯めてからキチンとGRECOを…とも考えたが、
高校生になったからには、もう一刻も待てなかったのだ。

そうして仕方なく、どうしたわけか素頓狂にも
「電気製品…安く買うならやっぱ秋葉原でしょ!?」と、
そこでメーカー不明のベージュのストラトモデルを購入。
さあ、いよいよ大音量ロックバンドを!
輝かしい青春のハジマリだべ!と思っていた。

ところが、もう中学で燃え尽きて灰になったはずのサッカーと
また関わる事になってしまうのと、
その秋葉原なんちゃってストラトキャスターのトレモロアームが、
ビヨンビヨンのゴム動力みたいな不安定さに閉口!
何とも中途半端な情況に陥る。

私のエレキ初ステージも、高1の冬、予餞会(卒業生を送る会?)…
サッカー同好会代表の余興の「ガロ」っていう、
なんとも情けない事になってしまった。

マトモにバンドとしてステージに立てたのは高校2年の秋….
しかし何故かその時の私はエレキはエレキでも
「エレキベース」を弾いていた…。

その後、どうやら私は「モテキ」にサシカカッタようで、
手形の大学方面とか、様々なロックバンドに呼ばれるようになっていて、
ギターにしろベースにしろ構わずにアチコチ顔を出していたように思うが、
実はあまり詳しい記憶がない。
まわりは年上ばかり。
飲み馴れない酒を煽り、
わけのわからないままJazzやらBluesのJam Sessionに明け暮れていたように思う。

そんなわけで、秋田では不完全燃焼なまま、
舞台を東京に移すことになるのだった。

東京では学校でも街でも、もはや大袈裟ではなく、
石を投げればギタリストに当たるってほど数多いし、
バンドの数も膨大。
しかしその殆どがヘタクソでセンスも悪い!と最初は侮り、
秋田のレベルの高さを実感するのだったが、
イザ潜ってみると、東京バンド界の底なし沼は恐ろしく深くて暗い、
出口の一向に見えない蟻地獄。

バンドの価値は「技量」だけではない、組織力みたいなもの。
気の利いたバンドは、きちんと自前のプロダクションチームを持っている。
裏方志向の学生スタッフ達が、
産業手段としてバンドを有名ライブハウスに出演させ、
サクラの客を動員し、
その現場に本物のプロダクションやレコード関係者を招待&接待で、
まんまとメジャーデビューする実例も沢山目撃したし、
事実そんな「経済力+組織力」が、
バンドの方向性と将来を決定づける場合も多い事を知った。

秋田のバンドの、ある意味「純真さ」「真っ当さ」は、
ここでは何の役にも立たぬという事だ。

何だか妙な方向になって来たな…、
何だかヤだなあこの世界…。
しかしズブズブズブと深みに引きずり込まれてゆく自分。
気が付けば21歳になろうとしていた。

(続く…またそのうち)
 
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 秋田(市)情報へ

スポンサーサイト

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

trackbackURL:http://pipco1980.blog.fc2.com/tb.php/205-938d8be8
該当の記事は見つかりませんでした。