ボチボチと生きてくよ!秋田篇

35年振りに故郷に戻り生活することになった、気がつけば中高年の泣き笑いなど。
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父のこと

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在りし日の父の後ろ姿!ならかっこ良いのだが、ザンネンながら別人様。
実際の父はスーツ姿のまま釣竿を垂れる変わったヒトだった。


12年前に亡くなった父親は東京生まれの横浜育ちでしかもボンボン育ち。
それが大空襲で焼け出され、また様々あって戦後になって
食糧豊富なユートピア(?)秋田市に移住した。
以来50余年を秋田で過ごし一生を終えている。

子供の頃の私は、父親の何だか中途半端で不自然な秋田弁がどうにも情けなく、
また秋田にあっては致命的とも言える一切アルコールを受け付けない体質
だったことから、交友関係は極めて狭かった。
趣味も休日に近場の川での魚釣りくらい。よく連れていかれたが、
一度釣竿を振り降せば….何時間も黙して語らずなタイプ。
息子の私でさえ付き合いにくい男であった。

突然、余命幾ばくもないと聞かされた。

私は東京で家族を持ってはいたが、秋田の実家には親戚の冠婚葬祭以外は
あまり帰らなかったから、双方合わせた家族が揃って団欒というのは
ほとんど記憶になく、思えば親不孝をしたものであった。
もう最後だから…で東京と秋田の本来の家族が「病室」で揃うことになった。
母ははしゃいでいたが、父はあくまでも父らしく、
薄く微笑みながらも威厳を保ちつつ、よく来た、ありがとな、忙しんだべ? 

秋田弁は相変わらず下手だった。

更に家人の手を握り、よく来てくれた、やっと家族が揃ったよ.…。
我々は心からそれまでの親不孝を恥じた。
いままで会社を休んだことなどなかったが、
その時は初めて数日休暇を入れてなるべく父の病床に付き添うことにした。
最後の一ヶ月、毎週土日は新幹線帰省な日々。
父とまともに向き合ったのはこれが最初で最後だった。

亡くなる2〜3日前だが、父の意識は明瞭なのだが、
言ってることが微妙におかしいと気づいた母は、記憶テストを行った。
何でも几帳面に記憶してる人だから、自分の家族の生年月日とか、勤務先と部署名、
ついでに私の東京の住所や電話番号まで正確に記憶していた、そんな人なのだ。
ところが一番安心していた自宅の住所が意外にもNGだった。

突然、神奈川県横浜市〇〇区△△町x丁目x号・・・と喋り始めた。

強いショックを受ける母、自分と知り合う以前の、
50年も前の住所を実に正確に現住所として粛々と真顔で話す父。
父の一世一代のジョークではないのか?と思ったほど。
その直後から容態は急変したから、まさに父の人生最後の謎の言葉となった。

後日、私は父のそこまでの思い込みの場所(?)に、
その正確な住所をもとに訪問してみた。
意外にも鶴見線という京浜工業地帯の中枢部にある中で
唯一といえる小さな住宅地にその地点はあった。
何の変哲もない鄙びた住宅地だったが、近くの土手を上ってみたら唖然とした。
父が長く働いた茨島あたりの光景そっくりなのだ。
JRの引込線やら、不自然に入り組んだ運河の蛇行。そして行き交う船の活気。

そして今、秋田の茨島に行ってみると…
なんだこれは!と見る影もない姿に唖然としつつ、
町が死んだと言うより、時代が終わったんだなあと思うに至った。
死んだ者、町を悔やむより、
次の時代を我々や、次の若い人がまた作り直さねばならないのだなあ!
とあらためて思うのだ。

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