コスモスとヒマワリ
P. Angenieux Paris 45mm F2.9 (1949)
たぶん今年最後…黄昏のコスモス。
何となく現在の自分の状況に重ねあわせたりして…。
こういうシチュエーションでは迷わずアンジェニュー…。
ぼんやり+ふんわり、まどろみの世界。
フランス・レンズだけに実に…あんにゅい。
ぬうべるばあぐやで、しるばぷれっ!?。
20代の、特に就職した中盤から後半にかけての
私は、典型的なモーレツサラリーマン!
そう云うわけだから、確かその間、結婚とか
いろいろあったように思うけれど、自分的には
ほぼほぼ…記憶がない。
なにしろ頭の中は仕事ばっかり…。
30才を少し過ぎた頃に、今度は仕事上の挫折を
諸々体験するようになると、ちょっと達観し始めて、
仕事人間はつまらない!
いや、仕事人間とはつまり駄目人間だ!
そういう風に思うようになって、
定年後の老人が、慌てて趣味を捜すように、
「遊び」を探求するようになり、当然のように
夜の街に繰り出してみたりするのだが、
そこで得た人脈がまた仕事に結びついたりして、
図らずも大儲けしてしまったり!?と、
なにしろ上手く行かない…。
スキーにスノボにウインドサーフィンにスキューバダイビング…
果ては海釣りに渓流釣りに、山登りに、バーベキュー&キャンプ…
競馬に競輪、パチンコ、麻雀、猪鹿蝶に、ちょっとヤバいポーカーゲーム…。
(ゴルフは…仕事の延長だと思ってたから、一向に興味がわかなかったな。)
どれもイマイチしっくりこなくて、結局は昔取った杵柄の
サッカー/フットサルチームの結成と運営…。
しかし、何年かして自分が試合中に大怪我して、チームも活動休止となると、
しゅるしゅるしゅる...と潮が引くように情熱は萎えてゆき、
いつの間にか、自分の湯治も兼ねて、月に一度は
家族で温泉一泊旅行…
それがやがて恒例化して、小さいけれど
家族の充実した時間が、とても幸福に思えるようになった。
随分時間がかかったけれど、解答は結局「家の中」にあった
というわけで、思い返せば、その頃が...
ヒマワリ時代の終盤だったかな!?
と、コスモス終盤に思うのだ。
前回に引き続きスライドギターものの中でも特にお気に入りの
ボニーレイットを本日は…!。
YouTubeには、同曲の公式ヴィデオでリリースもされている
77年モントルーライヴの方が画質が遥かに良いし、同じ年、
個人的にも、虎ノ門・久保講堂で彼女の素晴らしかったライヴを
目撃しているから、問答無用でそちらを紹介したかったのだが
たぶん77年よりもう少し前のこちらのライヴ音源の方が出来が
数段良いので、画質は劣るけれど、こちらを取り上げることにした。
ボニーとは、まだオーリアンズも知らないときにギタリストの
ジョンホールのプレーにすっかり心酔して、そのツテで彼女を
知ったらば、そこに居たのがビルペインやらポールバリアらの
リトルフィート軍団や、アメリカンミュージックの良心=
エリック(ジャスティン)カズといったキラ星のミュージシャン達。
私はそんなにブルーズ自体得意ではなかったけれど、ズンズンと
ミシシッピデルタ擬き(!)や、マルディグラな中西部、
または南部風サウンドの蟻地獄に、はまり込んでしまうのだ。
この曲自体は、彼女の72年のセカンドアルバムの表題曲であり、
A.面先頭、さらには久保講堂でもオープニング曲だったもの。
密かに私は、この曲こそ、Little Feat "Dixie Chicken"の
元ネタ…ひな形…だと確信している…。
日本公演ではベースのフリーボが最初からチューバを担いで登場して、
満場大喝采の楽しい夜だったと、今でも深く心に刻まれている。
80年代になるとレーベルが変わったりして、ボニーは最前線から
やや遠のいてしまうのだが、その間、元フェイセス=
イアン・マグレガン・バンドをバックバンドとして活動していて、
そのバンドのベーシストこそ、我らが小原礼氏であったから、
結局、彼女の動向は80年代もずうっと注目していたことになる。
そしていよいよ90年代は、グラミー受賞などで彼女は
再ブレーク&大ブレーク!と、なるのだが、
へそ曲がりとしては、そうなるともう、
なんだかこそばゆくって、大スターでも殿堂入り歌手でも
お好きにどうぞ…って感じになってしまった。
Bonnie Raitt - Give It Up Or, Let Me Go
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